新店舗開業への道015-思い立つまでの道すがら回想録03+崖っぷちから大逆転03・事業主プロフィール

「これで0からのスタートだっ!」

清々とした思いと共に夢へ向かって足を踏み出した1988年昭和63年の10月。
オグリキャップの活躍と好景気に沸くバブル期の東京でした。

16歳、今思い返せば子供じみた浅はかさと未成熟さを色濃く残し
「音楽で一山築くぞ」との気持ちばかりが強く、その為の方法論や人脈などはもちろん0。

単に「ギターの腕前に自信あり」の気持ちが、さらなる根拠なき自信を生み出すという。
今振り返ると赤面必死の単独自前マッチポンプ方式の青春時代の幕開け。
憧れだった「東京での1人暮らし・腕試し」四畳半アパート生活のスタートです。

当然、親らがそんな話を許すはずがありません。
それが一般常識的認知でしょう。

しかし、そんな「無理・無茶」な決断すら、親の理解を得らるほどの
悪辣な中学生期を過ごした私は、「自分で働いてすべて自分でやるから」と
むしろよくそこまで更正したなと親らの理解を得る事に成功します。

・中学3年生・夕暮れの校舎に忍び込んで
ヤンキー

盗んだバイクを乗り回し、髪の毛を黄色く染め上げ、
無限に沸き起こる体力と欲求不満を発散せんと街を徘徊する毎日。
その無限とも思える湧き上がるエネルギーは、先生や他校の生徒にまでも及び
警察署の世話になり、裁判所に呼び出され、行き着くところは一体どこなのかも
一体自分は何がしたいのかもわかりません。

当時は、ビバップハイスクール、湘南爆走族やホットロードなどの、いわゆる「ヤンキー系風俗」が
同年代より持てはやされ、人気をはくし、ファッション化し、
その波に乗るのが「モテル男の条件」みたいに勘違いを招く風潮が一部に存在したのです。

そんな安直な風潮に流されるままに、親にも地域にも多大の迷惑をかけたのですが。
ある一つのロックバンドの活躍をきっかけに、その膨大なエネルギーが
「楽器を弾けるようになる事」に注がれ始めます。

歌謡ロックバンド・BOOWYのセンセーショナルが「モテル男の条件」の概念を一変させます。

えっとつまり、「女の子にもてたかった」訳ですよね。
その手法が、「ヤンキーを気取る」から「楽器が弾ける」にシフトした瞬間を
思春期の私は敏感にとらえたのです。あはは。

かくして、私は荒れに荒れた青春時代前期に終止符を打ち、
元々得意フィールドだった「音楽」に立ち返る事となったのです。

3歳頃よりピアノをはじめ、藝大出の母と爺様に厳しく鍛え上げられた私は
将来はピアニストを渇望され、日本で屈指のピアノの先生の元へと通うようになります。
数年は順調に学び続けました。

・海外よりピアノ留学で学びに来てた子らと恵比寿の公園にてピクニック
名前は忘れちゃったけどお互いを認め合える仲でした。
恵比寿


ところが、私の母の母、私の婆様が亡くなった後の家族は、重石を失うが如く迷走を始める事になります。
爺様は自分の子供らと骨肉の財産分与争いをはじめ、母はバブル期の資産活用、株やら土地やらに夢中になり
私は勉強などほったらかしで遊ぶようになり家族がバラバラになり始めました。


其れまでの家庭の温もりが嘘のように消えうせ各々が勝手な方向を向き、
私はと言うと前述した荒れに荒れた中学生時代を過ごす事となります。

それを止めた理由が「ギターを弾く為にも喧嘩して拳を傷められない」ことだったのですが。
再び音楽をと通い始めた専門学校にても冷め遣らないヤンキー旋風が吹き荒れていたのです。

入学して通ううちにまたヤンキー同士でつるむ様になり、音楽に傾きかけた想いが揺れ動きます。
また中学時代のような生活を繰り返しそうな雰囲気を恐れた私は決断します。


・15歳・市川の音楽専門学校にて
ヤンキー


思い切って学校を辞めて、頭を丸めて自分の道を歩む事を決意し、
東池袋の築50年の風呂トイレなしのオンボロアパートを借りました。
中学校時代より続く交友関係も全て絶ち、音信不通となる事を選択しました。
その位しないと前に進めないと考えたのです。

俺は周りと違うんだとはみ出してボンタンはいてリーゼント気取って見ても、
結局は、はみ出した者同士でつるんで群れて。
そんな生き方にも嫌気がさしてたところでした。

これからは周りとか個性とかを気にせずに、
単に自分のやりたい事をやるのだとの想いを胸に秘めて・・・。

とは言うものの、BANDの練習するにも金、飯食うにも金、とにかく生きて行くにはお金がかかります。
地元で呑み屋でもやれば後輩や友人知り合いやらで賑わい、食うに困らなかったろうと思うんです。

でもしかし若さがそれを許さず、
自分のことを誰も知らない1千万人の雑踏の中で自分の力を試したかったんすね。

私の選んだ道は、親から自立して「フリーターしながら音楽やる」ってな物でしたから
東京での10年間は、様々な職業を経験しました。

居酒屋厨房
レストラン厨房
中華料理厨房
ショーパブ厨房
バイク便
日雇い建設工
日雇い引越し便
トラック助手
倉庫管理
楽器卸販売
ガソリンスタンド
防水工
防水職人助手
沖縄ホテルウェイター
焼肉店厨房
群馬嬬恋キャベツ栽培出荷
大島お土産屋さん
三ケ日みかん栽培出荷
公園清掃管理
倉敷三菱自動車工場
川上村キャベツ栽培出荷
ファミレス厨房
事故保険調査員
冷蔵物卸管理
カークーラー製造ライン工場
プラスチック成型射出工
通販在庫管理出荷
陶芸体験工房

・企業概要書には一言「以下アルバイトを中心に働く」としかありませんが・・・
企業概要書 日本政策金融公庫 商工会議所

死にたい位にきつい仕事、楽しい仕事、様々でしたが
「労働」と言う概念をしこたま体に叩き込み
「何があっても、どこででも、何をしてでも生きてゆける」と言う自信を身につけたのは
この職業体験があってこそだと考えてます。

私は生粋の労働者であり叩き上げの雑草です。
汗をかくのが当たり前、生半可な仕事で糧を得ようとは考えません。

仕事するからには徹底的にやります。
時給だろうが雇われだろうが関係ありませんでした。
これは私の胸の内に今でも強烈に刻み込まれてます。

次回は「企業概要書」です。